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演出 メモ
演出メモ 15

 本番まであと3週。キャスト・スタッフ・制作共々、追い込みも佳境に入り、熱くきびきびとしています。頼もしく思います。2月14日(土)15日(日)が楽しみです。 

 ところで、私は演出メ1で、演技について次のようなことを記しています。

 ステージの演技はどんな人でもできる。この確信は演劇祭の演出を始めた時からありました。アンダーグランドの演劇を体験していたからだと言えましょうか。
 アンダーグランド(アングラ)の劇づくりのメリットは、既成の演技術を基準にした上手い下手を目標にするのではなく、出演者夫々の「個」がどれだけエキサイティングに或いはエキセントリックに、のびのび見えるかを大切にしたところにあります。何より個々の自由な演技が、個別的感覚が尊重されたと言えましょう・・・。ですから、誰もが参加できたのです。
 素人のオルギー(遊興)の偏重と批判される側面はありましょう。が、知らず知らずに個がみせる演技の素朴さは、愉快な露出もあって、自意識を捏(こ)ねた、これが演技でございます的演技よりも質量の濃い、ドキュメンタルな迫力があります。
 演劇の面白さを出来合いの価値観で決めてしまっては「もったいない」と思います。

 以上の考えかたは、勿論、現在も変わっていません。それどころか「義賊と殿様」の稽古場にいてドキュメンタルな面白さを実感しています。
 しずおか演劇祭実験劇場は心身に障害があろうとなかろうと、オーデションで選ばれた出演者が自身の演技力に出会い、その底力競うステージ造りを試みています。
 ですから、出演者が自身の演技力に出会う個々の「瞬間」を大切にしているのです。それは夫々の個が「生きることの底力」に出会う「瞬間」でもありましょうから・・・。

                             佐野 曉


  
| しずおか演劇祭実験劇場とは? | 演出メモ | 11:37 | comments(0) | -
演出メモ 14
 演出メモ 14

 演出メモ13を記したのが9月でしたから、3ヶ月ぶりの記載です。なまけていたわけではありませんが、いくらなんでも、間のあけすぎです。反省いたしております。
 この間、稽古の方は基礎のトレーニングから入り、発声・エチュード・読み稽古・立ち稽古と、かなり順調なペースで進んできたと言えます。この12月に入り、何だか役者陣の熱がひとつ増したようで、ホットな気分になっております。私たちの稽古場はいろんな
役者が集合しておりますが、名優・奇優・珍優・秀優・・・全員、元気一杯!もりもりです。特に嬉しい事は、登場人物の個性と役者自身の個性が重なってきたことです。オーデションで集まった面々を見てからの台本化作業だったので、嬉しく、これからの仕上がりが楽しみです。
 今回の台本は、シーンが次から次に展開するので、シーンの切れとテンポとムードのバランスをとることが難しいところですが、現在の稽古の感じでは、おそらく、役者陣の失敗はあり得ず、演出の技が試されてくるように思えます。ということは、私の作業がこれから始まることになる・・・ということです。緊張するところではありますが、頑張りがいのある稽古をしようと思っております。

                           08、12・4
                                佐野 曉
| しずおか演劇祭実験劇場とは? | 演出メモ | 17:21 | comments(0) | -
演出メモ 13
初めに、コメントを頂きながらそのままにしておいてしまった失礼をお詫びいたします。知識不足でした。すみません。  佐野 曉

台本「怪盗 鼠小僧次郎吉(課題)」について、おおまかでではありますが、ご報告いたします。ブログにも記しましたが、台本化にあたって、「義賊・大奥・お陰参り」の三つのプロットを設定しました。そして、具体的作業を進めながら、義賊の場面では、貧しい人たちにおカネを施す(ばら撒く)義は如何なものか?と・・・、鼠たちの「農」への転身を考えました。大奥の場面では、庶民・貧者とかけ離れた派手な所にいる将軍とその周りの人たちの「孤独と欲」をみつめました。お陰参りの場面では、今の暮らしを「抜け出したい」と願う心情に触れようとしました。そうして、ストーリーとしては以下の展開をイメージしました。
 お上・為政者が下々の苦しい生活を考えてくれないなら、貧民が自分たちで自分たちの世界をつくってしまおう!!というオハナシを、「検地外農業」(年貢の掛けようのない、検地されていない田畑での、合法的非合法?農業)とそういう「農」への義賊たちの転身をからめて語り・・・・・・
 一方、お上や為政者自身も、実は先行き不明であることの、孤独と欲の「皮肉」を、トップである将軍さまの出奔(家出・さすらい)と周りの人たちの自己中を、おどけで語り・・・・・・ 
 結局は、上も下も、どこかで・・・現況を抜けたがっている「在所離(あくかれ)」、
つまり、憧れがあるのではなかろうか、という欲求を「お陰参り」で語ってみようか、と
・・・・・・
 そうして、その抜けて行く先を、みんなが愉快に楽しく暮らせる「安楽世界」のイメージで括ってみようか・・・と考えました。

 
 演出的には時代劇を借りたメルヘンを軽妙にステージ化できたらと想っています。
メルヘンとは時代を映す寓話です。「たとえばなし」です。
 
 今の社会は、おカネとモノに囲まれ、一見、明るく暮らせているように見えますが、どう考えても、先行きは不安です。為政者も頼りない。(頼みの綱である)人と人が繋がって(社会を良くしよう)という幻想も語られなくなっています。そんな社会を、悲しみながらも笑っちゃうぜ・・・と批判したくなってしまう心境、とか、もっといい所・いい事がないかいな?とかいう脱出願望・・・等々を下敷きにした「たとえばなし」として、貧民が自分たち自身の農業世界に挑み、絆された義賊が健康的な農民に変身し、将軍が家をお城を抜け出て?流離ってしまうというオハナシをつくりました。面白おかしく大胆に出演者たちに演じて貰おうか、と稽古場に通っています。まだ、稽古は始まったばかりです。

 これからが楽しみです。                佐野 曉(さとし)     
| しずおか演劇祭実験劇場とは? | 演出メモ | 12:09 | comments(0) | -
演出メモ 12
 二宮金次郎(尊徳)などと書くと、唐突で、時代錯誤だ・・・と思われるかもしれませんが、すこしおつきあい下さい。実は、台本づくりの参考になろうかと、ジョージ秋山さんの、金次郎をモデルにした漫画を読んでいましたら、以下の言葉にであいました。そっくり引用させて貰います。
 「たとえば役人がよいといっても、全国民がみな役人となったらどうだろう。必ず国は滅亡する。しかし全国民がみな農民となっても国は滅亡しない。 兵士は貴重であるといっても、全国民がことごとく兵士になれば同様に国は立ち行かない。商となるも、また同じことだ。 しかるに農は大本であるから、全国民がみな農となってもさしつかえなく、立ち行くことができる。 農は大本であり厚くしなければならず、養わなければならない。その大本を厚くし養えば、その末はおのずから繁栄することは疑いない」
 これは農業を中心に国家を動かそう・・・という農本主義の思想です。食料の自給率が
39パーセントという、今の、日本の状態を考えるとかなしくなります。ひょっとして、
日本はなくなってしまうのでは、という危惧もおこります。おさびしいかぎりです。てな
印象を抱いてたところに、たまたま、「国家の品格」を著わされた藤原正彦さんの、美しき里山が国家の品格をつくる、というエッセイを読ませて貰い、粗末に荒廃した土地をみんなで、がんばって元の自然には戻らなくても、美しい里山づくりをめざすことによって
人にとって一番大切な、繊細な、美しいことへの感受性が育まれる・・・という発想に触れることが出来ました。藤原さんは数学者ですが、「わたしには、信州で土にへばりついて生きてきた百姓の血が流れています。それが、わたしの誇りです。」とも書かれています。自然と向き合い、ある時は厳しく、ある時は繊細に、また、ある時は美しい風景への憧憬を根っこに生きてきた人たちへの誇りを取り戻す。これは見事な品格だと、思います。   私は今、鼠小僧と闘っていますが、義族たちが、どういう、新鮮なことに気付いてくれるのか、作品づくりの共闘者、岡さん共々、今、懸命に頭の隅々を洗って、ひとつの品格づくりをめざしています。
 農本主義の先に鼠たちが辿りつけるところもありそうだ・・・とも思いつつ。

                             佐 野  曉


| しずおか演劇祭実験劇場とは? | 演出メモ | 19:47 | comments(0) | -
演出メモ 11について
 演出メモ11の末尾で脱字に触れましたが、脱字は無かったようです。
 とりあえず、ご報告にて。        佐 野  曉 

| しずおか演劇祭実験劇場とは? | 演出メモ | 11:03 | comments(0) | -
演出メモ 11
 またまた、日が空いてしまいましたが、今日は台本の、お陰参りと義賊について、すこし書いてみようかと思います。現在、台本上と言いますか、ドラマの設定として、「お陰参り」を、幕府(為政者)が、庶民弱者のうっぷんを晴らす、謂わば、不平不満のガス抜き毒抜きを狙ったずるい、庶民弱者を誑かす仕掛けとして発想して、話を進めています。
 で、一方、義賊の施しなんですが、庶民弱者が、仮令、二両・三両のおカネを恵んで貰っても、それは気休めの憂さ晴らしにしかならなくて、その意味では、憂さというガスは抜けることになるわけです。しかし、この施しは、鼠たちの「いいことをしている!!」という、自己の満足?は充たしても、実は、庶民弱者の苦しい暮らしの根っこを解決することにはならないでしょう。やっぱり、ガス抜き・毒抜きの効果としか評価できないと、私には思えます。強い言い方をすれば、幕府のガス抜きに、義賊として、手をかしているのでは、幕府の庶民弱者支配の応援を、図らずも、しちゃってるのではなかろうか・・・とも思えるのです。
 このあたりに鼠たちが、どんなかたちで気付いて行くのでしょうか?まだまだ、クライマックスは先のことになりそうです。
 ドラマの筋立て・内容を全部書いてしまうことはできませんが、面白い展開になりそうです。乞うご期待!!と、言えます。 また、書きます。

    脱字がありましたので、再送します。                                               佐 野  曉
| しずおか演劇祭実験劇場とは? | 演出メモ | 10:45 | comments(0) | -
演出メモ 10
 すこし間が空いてしまいましたが、歴史劇と時代劇について書きます。昔を語る文学に歴史小説と時代小説があるように、演劇にも歴史劇と時代劇があろう、と私は考えています。この二つの違いはどこにあるのか?と言いますと、史実に沿ってドラマを丁寧に展開させるのが、歴史劇で、教科書的な印象を与えるかもしれません。観客は歴史の時代に導かれましょう。と言おうか、歴史に向かって、その時代を知るつもりがないと楽しくはないでしょう。一方、時代劇は、歴史の事実とかその時代風俗とかは踏まえましょうが、私は、現代を表すために、時を昔に代えてドラマを展開させるのが、時代劇じゃなかろうかと考えています。「時代劇は代時劇」で、現代劇と言えるのではなかろうか、と。
 で、われわれの『鼠』はどっち?と、申すまでもなく、時代劇であります。あくまでも現代の世間に向かって現代を問う劇であります。現代を問うなど、とは、おこがましいことでしょうが、以前に書いた三つのプロット(鼠とお陰参りと大奥)を絡めて、ドラマを展開させ、少しでも今を感じて貰えればと考えています。勿論、演劇から娯楽性を奪ってしまうような愚挙は致しません。楽しい活劇を目指しています。
 因みに台本づくりは、岡康史さんと話し合いながら進めています。作業は順調です。

                                佐 野  曉

| しずおか演劇祭実験劇場とは? | 演出メモ | 12:13 | comments(0) | -
演出メモ 9
 今日は教えてもらえたら嬉しい・・・ナ、思っている記事を書きます。それは「こちゃえ節」(お江戸日本橋)に書かれている「詞」の意味なんです。「お江戸日本橋七つ立ち
初上り 行列揃えてアレワイサのさ コチャ高輪夜明けの提灯消す こちゃえこちゃえ」という唄い出しの有名な俗謡で、おおまかな内容は、七つ立ち(午前4時の暗い時分に旅立ちした殿様がお国元に帰る行列)が、高輪あたりで夜明けをむかえ、行列の提灯を消すということだと思えます。が、私にはこの詞の中にある「アレワイサのさ」と「コチャエコチャエ」が、どうしても解りません。両方とも掛け声のようであるな・・・くらいには感じて、掛け声だったら、「ああ」とか「それそれ」に似ていて、唄いながら、その時の気分とか調子で弾んでしまえばいいのかな?と思ったりはしているのですが、どうもしっくりしません。因みに、「こちゃえ こちゃえ」は福岡の方の高校の応援歌に歌われているそうです。今回のお芝居『鼠』で、この俗謡の醸す、道中唄の浮き浮きするような気分を、何とかお借りしようか・・・と、考えています。

 本日の二つ目は、今回の『鼠』の台本づくりにご協力を願う。岡 康史さんのプロフィ
ルを少し書かせてください。
 岡さんは「午後の自転」という劇団の代表者で、劇団オリジナルの台本を書き続け、演出も担い、ご自分も出演してしまう・・・という、多才なお方です。しずおか演劇祭の劇に、役者として参加してもらって以来、のお付き合いです。役者さんとしての才能は素晴らしく、いつかは彼の演じる「リチャード三世」(シェイクスピア)を観せてもらいたいと念じています。
 彼の書いた劇団オリジナル作は20本で、代表作は「流星のシステム」「きみがみたはじめてのゆめ」というご返事が届きました。私も何本か実際のステージを観させてもらいましたが、劇団員諸氏の軽妙な演技ともども、その若やいだ清新なお芝居(台本)に驚かされました。『鼠小僧』という、ちょっとクラシカルなイメージを与えるかもしれない実験劇場の今回のお芝居に、あっと驚いてしまうような、新鮮な風を吹き込んでくれることを期待しています。

                      佐 野   曉 
 
 
    


































| しずおか演劇祭実験劇場とは? | 演出メモ | 11:54 | comments(2) | -
演出メモ 8
 先回の演出メモ7で、実験劇場の「フツーの演劇」について書きましたが、今日は、じゃあ、どんな作品をやって来たのか・・・、レパートリーを記します。

 1991年の11月にしずおか演劇祭は始まりました。その第1回目のレパ(作品)は、今年の2月に上演した「決定版 十一ぴきのネコ」(作、井上ひさし)でした。以降、8回まで演劇祭は続き、そのレパ群は以下の通りです。
                                         #2 1993年・ 3月 活劇ミュージカル「宝島」(作、寺山修司)
 #3 1994年・ 3月 スペクタクルファンタジー「12の月の物語」(作、ボー    マルシェ)  
 #4 1994年・11月 集団創作劇「トリップスター」
 #5 1995年・11月 「モモと時間どろぼう」(作、エンデ)
 #6 1997年・ 3月 ドリームファンタジー「青い鳥」(作、メーテルリンク)
 #7 1998年・ 3月 恋の面白まじめファンタジー「夏の夜の夢」(作、シェイ    クススピア)
 #8 1999年・ 4月 水のメルヘン「夜叉ヶ池」(作、泉 鏡花)

 この回まで演劇祭は続き、2001年、しずおか演劇祭実験劇場として再開しました。
実験劇場のレパは以下の通りです。

 #1 2001年・ 4月 もうちゃんの「好色」ものがたり(原作、芥川龍之介)
 #2 2003年・ 2月 仮宿橋物語「夢の乱」(作、佐野 曉)
 #3 2004年・ 3月 天守物語(作、泉 鏡花)
 #4 2005年・10−11月 「羅生門」(作、佐野 曉)
 #5 2007年・ 2月 ・・・はるか伝説の島の<クライトン>(原作、Jmバリ    ー 台本、佐野 曉)
 #6 2008年・ 2月 ミュージカル「決定版 十一ぴきのネコ」(作、井上ひさ    し)
 #7 2009年・ 2月 『鼠小僧治郎吉』(仮題)・・・・・<現在、準備中>

 以上です。

 ご覧の通り、作品群名はみんなフツーの演劇といっしょです。一応、全作品の演出を私
佐野が担当して参りましたが、公演を重ねるごとに、作品の細部に試みを重ねるごとに、
つまり、原作のままでは上演が難しいので、細かく具体的に作品に関わり、潤色化を試行しながら、わたし達の「劇づくり」はフツーなんだと考えられるようになった・・・と、
言えましょうか・・・。
 かって、アンダーグランドの劇の方法は、新劇的な巧拙を離れたところにあって、そこ
のリアリズムを乗り越えようとしていました。その方法の根っこは「出演する者」の個の肉体性に拘る姿勢があった・・・個の私史性の露出とでも言えましょうか、ドキュメンタル趣向がありました。私、佐野もその渦中にいた者として、障害者と健常者がいっしょにという発想の劇を担うにあたって、戸惑いながらもアンダーグランドの感覚を思い出して、改めて方法化していたと言えます。出演者の個(心ごと身体ごとの)の露出を軸に、劇をみつめればいいのだ・・・・・ならば、対応は出来ようと。

                             
                            佐野 曉
 




| しずおか演劇祭実験劇場とは? | 演出メモ | 16:31 | comments(0) | -
演出メモ 7
 昨日、24日(土)静岡芸術劇場に泉鏡花の「夜叉ヶ池」を観に行って参りました。演劇祭で上演した作品でもありましたので、興味深く、表現スタイルの違いとか役者さんの訓練されたアクションとか・・・楽しく観させてもらいました。就中、役者さんの打楽器を演奏しながらのステージ表現にはちょっとジェラシーに近い感情が起こりました。
 それにつきましても、ステージの「セリ」について疑問がひとつ残りました。というのは、今年の2月、実験劇場は同じステージで公演をしましたが、その折は強い調子で「セリ」の使用を禁じられ、私たち spac も、奈落は倉庫代わりで「セリ」は、機材出し入れのために、云々、と村松さんという担当者に告げられて、公演での「セリ」使用を断念いたしました。所謂、表現の変化を余儀なくさせられた訳です。しかるに、昨日の「夜叉ヶ池」では、くだんの「セリ」を大小、清々使用したステージを目の当りにしました。楽しく演劇を観るやら、何だこりゃ・・・使ってるじゃん!?嘘ついたのかよ!!マズいぜ・・・と、思わされるやらで、複雑な気持ちでいっぱいになりました。「セリ」は表現効果を上げるための機構です。演出の宮城さんも効果的に使用されていました。

 嘘言っちゃいけねえよな・・・・・!!


 と、不満たらたらではありますがが、そのことは何れちゃんとお聞きすることにして、今日は、演劇祭と『フツ−の演劇』ということに少し触れてみたいと思います。

 ご承知かと思いますが、しずおか演劇祭実験劇場の特色は「障害者と健常者の競演」にあります。が、わたし達のつくっている演劇はフツーの演劇です。障害者と健常者が競演してなどと言うと、障害者に対する福祉センスの如何(いかん)は・・・?それは芸術なのか?・・・と、問われそうですが、なんとも、フツ−の演劇を・・・と答えるしかありません。が、実のところ、障害者問題は不問に出来ませんし、わたし達も本当はそのことで悩んできました。ですから、そういう問いを無視することは出来ません。
 しかし、いま、実験劇場が辿り着いたところから言えば、あんまり有益な問いではないように思えます。演(や)る者の体力と気力があれば、どっちでもいいことです。と記すのも、世の中には障害者も健常者もいるからです。それがフツーです。同じように、背の高い人も低い人も、美男美女もそうでない人も、気の強い人も弱い人も、ずるい人もお人よしの人も・・・・・そういう人がいっぱい集まって世の中は出来ています。ならば、そんなふうないろんな「人達」が、そのまんま正々堂々、演劇に登場すればいいだけのことです。世の中と一緒です。長く現場の活動をしてきて、遅ればせながらそういうことに気付いたのです。ひょっとして、それは、「体力と気力」を虚実に遊戯させる、演劇の得意技ではなかろうかとも。
 たしかに、障害者の出演については、動いたり視たり聞いたり喋ったりすることの不自由さ、とか交流の障害とかが伴うでしょう。しかし、それも現実、フツ−の日常性なのですから、そのまんま演劇に登場人物として出てしまうことは、可能でしょう。何もそこに面倒な理屈はいりません。出てしまえばいいのです。かって、障害者を演じる健常の名優がいました。座頭市、丹下左膳の俳優さんしかりです。その演技力は認めなくてはならないでしょう。だからと言って、障害者を健常者が演じるばかりが演技ではないでしょう。
障害者が夫々の不自由さを抱えたまんま、その、「動視聞喋」を尽くし、障害のある登場人物を演じればいいのです。
 が、しかし、ここにひとつ大きな問題があります。それは、ほとんどの脚本・戯曲が、残念ながら、たとえ障害者の登場人物であろうと、健常者(健常の俳優)が演じることを前提に書かれているということです。セリフの言葉、文脈、息づかい、間、ト書、行動指定、場面指定・・・・・など等、大概、障害者仕様ではありません。あのシェイクスピアもリチャード3世を障害者が演じることを前提にしていません。劇作家、劇詩人がそういうことにボケーッとしていたとは言いませんが、障害者にとっては不便でしょう。無理をして演じても、不自然な露出を、妙な、よくある過剰評価でなぞることにもなりかねません。
 ですから、わたし達はいま、いろんな「人」が出てきて、いろんな思いがけないことをやったり、言ったりして・・・場面や情景・・・をみせて、いくらか多音的で多色的になるかもしれませんが、そういう所謂、雑駁(ざっぱく)?さを抱え込みながら、だからこそ、 〜人と人が生きて在ることの問いをエイサイティングに〜 物語れるのであろうと一番に、それを支える脚本・戯曲、つまりはおおらかな台本を求め、試行をかさね、あれこれ模索し、他所の方々が演劇をつくるように、フツーの演劇をやっているのです。ひとつふたつの遠回りはあろうかとはおもえますが・・・それも、創造的にみれば、あたりまえ、フツーのことでしょう。

                             佐野 曉
 
 
 
| しずおか演劇祭実験劇場とは? | 演出メモ | 17:12 | comments(0) | -
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