2008.2.9(土) 天気:
「ちいさき神の、つくりし子ら」
観てきました。
ろう者と口話教師夫婦の
出会い、結婚、その後のお話です。
と言うわけで字幕がついています。
外国の映画や演劇についている
あの字幕です。
日本語に字幕が付くのです。
それも生の芝居にです。
何が問題なの?と思う人がいるかもしれませんが、実はこれがリスクを伴うのです。
1つは、役者が台詞を台本どおりに(一語一句正確に)しゃべらないリスク
(忘れたり、言い回しが違ったり、前後が逆になったりetc・・・)
1つは、台詞を言う前に台詞が分かってしまうリスク
人が文字を追うスピードを考えると、あまり細切れに出すと読みきれないし、
かといって長いと先が分かってしまう。
他にも、字幕の位置、字数の制限などなど、字幕を出すには悩みは尽きないのです。
かくゆう、しずおか演劇祭実験劇場のお芝居も字幕をつけています。
とういう訳で、「十一ぴきのネコ」の公演直前にもかかわらず、
このチャンス逃がしてなるものかと思い、観て来た次第です。
ずい分前置きが長くなってしまいましたが、そのご報告を。
場所は、六本木にある
俳優座劇場です。
(2月16日土曜日まで公演しています)
字幕は、舞台の上手下手両脇(ソデの部分)にモニターがあって
そこに写されていました。
四行(一行20文字ぐらいか?)で、かなりの台詞が映し出されます。
音楽も「♪」マークが出、音は(○○の音)などと表示されます。
演劇祭と違う点は、二人分の台詞(多いと四人分になる)が出ることです。
(それぞれの台詞の冒頭に「−」が付いていました。)
今回の「十一ぴきのネコ」では、ネコたちの掛け合いのような場面(テンポが命)が
多くあり、一人の台詞が短いので、二人分の台詞を出そうかと考えていたので
安心しました。
一観客として観た感想です。
字数が多く出るのは、あまり気になりませんでした。
無意識に台詞を耳で聞きながら字幕を追うという感じでした。
でも、そうすると舞台が観れなくなり、役者の表情や細かい動きが分かりません。
お芝居に夢中になると、字幕を見ていなかったりしました。
役者が、台詞の言い回しを変えても気になりませんでした。
今回、ろう学校の生徒と教師という設定で、
ろう者3人、その母親1人、教師2人という役柄でしたので
ほとんど手話が付いていたし、しゃべりながら手話をしていたり、
サラの手話をジェームスが繰り返ししゃべったりと
耳の聞こえない人も聞こえる人も楽しめるお芝居だったと思います。
手話だけのシーンは、慌てて字幕を追いましたが、
なかなか追いつけませんでした。
(ちなみに演劇祭の今回の山の人のシーンは手話のみで、あえて字幕をつけません。
手話を観て貰おうと考えています。そういう不便さもあっていいのでは・・・)
内容の感想です。
いろいろ考えさせられました。
「ろう者の世界は、ただ単に聞こえない世界ではないこと」
その通りでしょうね。
そして、ろう者の世界と聴者の世界を行き来していること。
つねづね、手話は1つの言語であり、
ろう者の方たちには独特の文化(コミュニティー)があるなぁと感じていました。
同じ日本に暮らしているのに、違う文化があることを聴者は気づいていない。
そのギャップが、差別を産んだり感じたりするのかな。
ろう者聴者だけでなく、日本にはないと思われている階層(貧富だったり、学歴だったり)
文化を価値観に変えれば、個人対個人だったりする。
違うことへの排除が、最近ますますひどくなっている気するし・・・
だからこそのコミュニケーションなんですよね。
言葉を放し、受け止める。
心を開放し、ぶつかってゆく。
まさに演劇ですよね。
かくゆう私もコミュニケーションが下手で・・・
日々格闘しています。